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昔日の訪問



人間生きていれば思いもかけない出会いもある。ある日仕事場で自転車を借りて出かけた兄を待っていると言う人と話していたらその人が「私、子供の頃に ここに住んでいたんですよ」と言う。そこで島出身の人だと思い「どの辺りの、苗字はなんですか」と聞くと、島の出ではなくお父さんが校長先生で、一家で島に住んでいたのだとのこと。名前を聞くと、「能美と言うんですけど、私の事を松本さんと同じくらいじゃないかと回天記念館の人に言われてここに来たんです」と言われてまたびっくり。能美校長先生、背の高い細い優しい先生だった。

そう、確か高校生の息子さんが船で通っていてそのころの島では珍しかったので、余計に記憶に残っていたのだと思う。その事を伝えるとなんと先ほど自転車を借りて行ったお客さんが その人なのだとのこと。ますます打ち解けて、失礼ながらと生まれ年を聞くと、二十六年生まれと言う。「ああじゃあ、私は一級上です同級生にこれこれの人がいませんでしたか」の問いに「それがね、恥ずかしいんですが、誰の名前も思い出せないんですよ」と答え、「でも景色とか出来事なんかはよく覚えていて、ここなんかは瓦礫の中でしたよね」という。そう、私逹が小学生の頃は、まだこ

こふれあいセンターも大津島小中学校もコンクリートの瓦礫だらけで草薮の所々には水の溜まった何に使われていたか判らないタンクもあった。「我が家の後ろにも、大きな池と言うか、水の溜まったタンクがありましたよ」と、今では埋めたてられて無くなった池の事を覚えておられた。その後、池の前に暮らしていた校長住宅や近所の他の教員住宅のこと。今では地獄の階段と呼ばれている急な階段を上がり下りして、学校に通い放課後、友達の家に遊びに行った事など、思い出は次から次に沸いて出た。「昔は野菜を給食に持って行ってましたよね。だからお芋ばっかり集まっていたりカボチャばっかり集まっていたけど、給食のおばちゃんが美味しく料理してくれて、美味しい給食を食べさせてくれていたわ」「私はピアノを習いに土曜日ごとに船に乗って通っていたけど、お客は船の底に入って冬は火鉢が置いてあるんだけど波が強い時はその火鉢が滑ってあっちこっちに動くのよね」お兄さんが帰るまでの時間六十年ぶりの尽きせぬ思い出に浸った秋のひと日の出来事。


(R2.1)


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